昭和42年01月12日 朝の御理解



 支那の言葉にメイファーズという言葉が御座います、メイファーズ。よく使われる言葉ですもうどんな場合でもこのメイファーズで片づけてしまわれる。物を取られてもメイファーズだと。メイファースというのは、まあ日本の言葉にはないですけれども、まあ大体一番近いのは仕方がないという意味です。しかし仕方がないという意味でも、実はないですね。愈々いわゆる国民性を現わした是は言葉だと。
 こう思うですね。言うならその事でケチケチしない仕方がな。所謂その大きい諦めとでも申しましょうかね。メイファーズとこう言われる。お父さんが亡くなっても、最愛の子供が亡くなっても、家内が亡くなってもお悔やみやら申しますと、残念がった残念がると言った様な言葉を使いません。メイファーズで片づけます、素晴らしいです。それこそ支那のあの黄河の反乱で、自分がたで作った田畑が荒らされても。
 矢張りメイファーズです。あのイナゴの大群にもうそれこそあの広い作物がですね、もう荒らされ尽くされましてもメイファーズ。大きな大きな意味でのその、諦めとでも申しましょうかね。ですからそこにはですね、もうそのクヨクヨしない、そしてそれで力を落とすと言う事がない、ね。次にはもうその荒れ尽くされた例えば田畑なら田畑にまた取り組んで行く。
 もう田にも畑にもならんだろうと言う様なその大洪水なんかを受けますとなりますけども、それを又次の年には田畑にして行っておる。その底の知れない言い知れない程のその、意外な諦めです。日本人の場合なんかはそれが違うようですね。まあそれは仕方がなかがのと言うのは小さい事でしょうが、ね。例えば大変取り返しの付かない様な事が起こって参りますとです、ね。、
 仕方がないで済まされるかと言うでしょう。もう国民性の相違で御座いましょうけれどもですね、私共その東洋にそう言う様な偉大な思想があると言う事をですね、私共は勉強するべきだと思うですね。メイファーズと。メイファーズだと。それは私共があちらへ10年おりまして、それを思うんですね。金が無くなっておるですね。その悔やみよるとメイファーズってこう言うんです。仕方がないと。とても仕方がないで済まされる事じゃないですけれどね。
 そこにあの仕方がないと支那のメイファーズの相違があります。そこでまあならお道の信心をさせて頂く者、お道に縁を頂いて、その信心の稽古をさせて頂く者はどう言う様な在り方にならせて頂くのが本当だろうかと。小は仕方がないで片づけられる様な事から、とても仕方がないで片づけられるかと言った様な事に至るまでのです、例えば自然の猛威とでも申しましょうか。ね、成り行きの中に起きて来る様々な難儀な問題、または日々の中にいわば仕方がないで簡単に解決される様な問題に意たる迄。
 お道の信心はそこをどういう風に教祖の神様は頂いておられるか、また頂いて行かなければならないかと。どんなに例えば、それは私いつも申しますように、例えば鴨居で頭を打ってもです、ああ痛よだけで済ませちゃならんて。小さい小石につまずいて転ぼうとしても、こげんとこにこげなんとば置いとるからと言う様な事で済ませちゃならんて。あいたぁが出る前に、神様すみませんというものがなからにゃいけんて。神様は私に何を教えようとしておられるのであろうかと。ね、
 そして私共が気付かせて頂く事はです、その事によって色んな知恵を多く与えて下さる。言うならその事によって清まらせて下さる。その事によって改まらせて下さろうとする御神意以外にない事を感じます。そこに私は日本の仕方ないと支那のメイファーズを言うなら一つにしたような、又これは限りない神様との繋がりをその事を通して愈々密接にしていく訳になるのです。
 教祖の神様の御一代を色々分からせて頂きますと、あれほどに実意丁寧の限りを尽くされる教祖の神様の在り方の中にも、ね、七墓築く様な難儀が次々と起こっております。それを仕方がないとも仰っしゃってない、メイファーズでもない。ただもうひたすらにもう、詫びて詫びて詫び抜かせて頂いて、そして私が改まりますから、私が清まりますから。もうこれは自然に起きて来る事は人間の力じゃどうにも出来んのだ。と投げやり的なものもない。もうなるごつなろうと言った様なものもない。
 そこん所を平身低頭お詫びし抜かせて貰い、清まられ続け改まられ続けられて天地の親神様との、まあ出会いと言う事になっておられます。当時それこそ金神いうこうと言う様な事やらは、もう本当に金神の働きというものは、もう猛威をいわば逞しゅうした訳なんですね。旅立ちを致しますのにも、もしそこに金神様御座るとするならばです。そこは避けました。又は金神封じを致しました。家を建てるにのも、ね。
 もうそれこそ小さい作事、ね、農作物の種まきの事に至るまで、刈り取りの事に至るまで金神いうこうの節を重視致しました。それはも今の私共が想像も着かない程の事であったらしいですね。それは今でもさあ結婚だ、新築だと言うとそれを致しますでしょうが。けれどもその、百年もその以前も前の日本の程度の低いこの信仰というものは。そのそれに縛られてしまったような生活を皆しております。
どんなにお天気が良かっても、いや今日は何々の日だから裁ち物もしちゃいかん、外にも出ちゃいかんというような。お裁縫をなさる人達は裁ち物でも日を見なければ裁ち物をようしませんでした。ね、そして知らんに知らずにやっぱりおかしい様な事にもなってくる、災難やら起こって来ると、そう言う様なやっぱ知らず知らずの。金神に対する所のお粗末御無礼がこう言う事になるもんだと信じておりました。矢張り教祖の神様もその事を信じておいでられた訳で御座います、ね。
 けれどもですその金神様という方がです、知って向えば命をとり、知らずに向かうても目をとるというほどしの力、働きを持ってござるいわば神様なのだから、人間がね実意の限りを尽くさせて頂いて、真心の限りを尽くさせて頂いてお詫びをしていけば。そういうまた生かす事も、いわば見えないものも見える様にも、ない命を助けて下さるような働きもして下さる様な神様に違いはないと言う様な考え方をなさった所に教祖の信心の素晴らしさがあると思うんですね。
 金神様を避けて避けて、言うなら悪人蛇人のように言うておったその時代の、まあ低級な信仰程度の時にです。そこん所に言うならば着眼されたというか、そこん所に目を開かれたのです。そしてこれで済んだとは思いませんというその実意なその事になって来たんですね。42歳の御大患の時でもそうでした。豹尾金神に無礼があるそれであの、喉けを煩われて、もう死ぬか生きるかと言う様な大病にかかれられた時にです、ね。この家の主人に限ってはです。
 そういうお粗末御無礼がある男では御座いませんと言うて、奥様のお父様に当たられる方がその、申しておられますですね。それをもう声も出らない、もう明日をも分からんと言う様な御重態の教祖の神様が、それをお聞きになってです、言葉は出られませんから、もうそのままはいはいして神様の前に出られて、只今氏子の申しました事は間違いでございます。人間氏子凡夫の事でございますから、どこにお粗末が御無礼があるやら分かりません。どうぞ只今氏子が申しました事は平に平にお許し下さいと言う事を。
 言葉が出らないから心の中に感じられ、念じられた時にです、それからものが出るようになった。そして神様からその時のお伝えがですよね。この家の主人は行き届いておる、と。5月の1日には験をやる。ね、5月の1日、5月の1日にはもう印を見せるというそのお言葉を受けておられます。そして5月の5日のお節句にはしょうぶ湯でも沸かして、そして床上げがあったという風に御伝記に残っております。ね、
 これで済んだとは思いませんと言う所に、お道の信心の在り方なんです。例えば自然の、例えばその猛威です、ね。もう大洪水と言った様な事はどうにも出来ない事なんだけどもです。それはもうメイファーズじゃ片づけちゃおられないと言う事。ただそれにまた取り組むという、それだけではないと言う事、ね。人間凡夫の事で相分かりませず、どこにお粗末御無礼があるやら分かりませんと。
 平に平にお詫びをし抜いておられます。七墓築くような難儀な事が続いて参りましても、ね、諦めておられません。仕方がないで考えそのしておられません。ね、そういう程に働きの力を持ってござる神様ですから、そこん所にお詫びし抜いておいでられる。私が私が清まりますから、私が改めて参りますから、どうぞその金神様と思われるその神様に対してから。どうぞお向きを替えて下され、お向きを替えて下されという姿勢でお進みになった訳ですよね。どのような場合でも、ね。
 そこん所が素晴らしいですね。お向きを替えて下され、ね。私が改まりますとそこに私共がです、様々な問題に直面し難儀に直面した時のいわば姿勢というものが、私は必要であるとこう思うのです、ね。仕方がないでしちゃいけません、と言うてなら大きくメイファーズで片付けてもなりません。ね、そこに天地の親神様の願いというものをです、感じさせて貰う所に、改めさせねばおかんというか、清まらせねばおかんというか、又は力を与えずにはおかんという。
 そういう働きを私共が働きとして分からせて貰って、ね、あの都度にそういう事の場都度都度に清まって行く。そう言う事の都度に私が、今までなかった力を頂いて行くと言う様なおかげを頂かせて貰って。初めて私はお道の信奉者の在り方というものがあると思うんですよね。どうぞ一つおかげを頂いて。どの様な事に直面いたしましても。その事に対する所の姿勢というものを正して参りまして、愈々その都度に清まらせて頂こう。その都度に愈々お徳を受けていこう、力を受けていこうと。
 そこに結論致しますと、あるものは神愛のみだと言う事になるので御座います。大風も大嵐も、大雨も。降る事も照る事も一切天地の親神様の、氏子可愛いという御一念の現われだと言う事が、そういう風な頂き方をして初めて分からせて頂くので御座います。ね、悪神でもなからなければ邪神でもない。所謂お向きを替えて下されという姿勢の中に、所謂今までかつて知らなかった所の天地金乃神様という神様がお現われになられたように、ひっくり返せば悪神邪神であった。
 それを引っくり返せば天地金乃神様としての、それこそ慈眼あふれる神様であるをお現わしになったと言う事になるのです。雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならんと。その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃと。そこん所を辛抱し抜かせて頂いて、しかもメイファーズとか仕方がないではなくてです、ね。御神意を体し御神意を分からせて頂きながら、ね、辛抱し抜かせて頂く所に、身に徳を受ける修行があると私は思うですね。
   どうぞ。